家老《かろう》のむすこのわるぢえ

それはむりもありません、アルファベット二十六|字《じ》をおぼえてしまうのに、三日《みっか》もかかったのですから。けれども、五十|日《にち》、百|日《にち》と日《ひ》がたつにつれて、だんだんよめるようになり、いみもわかるようになってきました。 こうなると、おもしろくないのは、奥平壱岐《おくだいらいき》でした。壱岐《いき》は身分《みぶん》のたかい家老《かろう》のむすこで、諭吉《ゆきち》より十さいぐらい年上《としうえ》です。はじめはせんぱいぶって、あれこれとおしえてくれていたのですが、そのうちに、砲術《ほうじゅつ》についても、オランダ語《ご》についても、諭吉《ゆきち》のほうが上《うえ》になって、壱岐《いき》はそれまでとはあべこべに、諭吉《ゆきち》からおそわらなければならなくなりました。それが、壱岐《いき》にはしゃくのたねでした。 それなら、いっしょうけんめいに勉強《べんきょう》すればよいはずですが、なにしろおぼっちゃんのことですから、自分《じぶん》でどりょくするということがありません。ただ、諭吉《ゆきち》が目《め》の上《うえ》のこぶのようにおもわれてきました。そこで、わるぢえをおもいつきました。

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 諭吉《ゆきち》が長崎《ながさき》へきてから、一|年《ねん》あまりたったときでした。中津《なかつ》の藤本元岱《ふじもとげんたい》という、医者《いしゃ》をしているいとこから、とつぜん手紙《てがみ》がとどきました。「お母上《ははうえ》さまが、おもい病気《びょうき》になられました。すぐかえってこられるように。」といういみの手紙《てがみ》でした。よんでいく諭吉《ゆきち》の顔《かお》からは、みるみるうちに血《ち》のけがひいていきました。 兄《にい》さんの三之助《さんのすけ》は、なくなったお父《とう》さんとおなじように、大阪《おおさか》のくらやしきにつとめており、三|人《にん》のおねえさんはみなよめ入《い》りして、ふるさとの中津《なかつ》のうちには、年《とし》をとったお母《かあ》さんのお順《じゅん》が一人《ひとり》いるだけなのです。

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