オランダのことばを勉強《べんきょう》するには

 けれども、中津《なかつ》には原書《げんしょ》もなければ、おしえてくれる先生《せんせい》もありません。オランダのことばを勉強《べんきょう》するには――それを蘭学《らんがく》といっていました――、長崎《ながさき》へいかなければなりません。長崎《ながさき》だけが、そのころの西洋《せいよう》の文明《ぶんめい》がながれこむ、一つのまどのようなところだったのです。 さいわいなことに、兄《にい》さんが、役所《やくしょ》の用事《ようじ》で長崎《ながさき》へでかけることになったので、諭吉《ゆきち》もいっしょにいくことになりました。(中津《なかつ》からとびだしたい。)という諭吉《ゆきち》のきぼうは、こうしてかなえられたのでした。 数日《すうじつ》ののち、長崎《ながさき》についた諭吉《ゆきち》は、桶屋町《おけやちょう》の光永寺《こうえいじ》という寺《てら》にいきました。ちょうどそのころ、中津《なかつ》の家老《かろう》(大名《だいみょう》・小名《しょうみょう》のけらいの長《ちょう》)の子《こ》の奥平壱岐《おくだいらいき》というわかいさむらいが、砲術《ほうじゅつ》の研究《けんきゅう》のためにやってきて、ここにとまっていたからです。それで、この人《ひと》にたのんで、お寺《てら》にやっかいになりましたが、半年《はんとし》ほどのちには、やはり壱岐《いき》のせわで、砲術研究家《ほうじゅつけんきゅうか》の山本物次郎《やまもとものじろう》という人《ひと》の家《いえ》で、はたらきながら、オランダの学問《がくもん》をまなぶことになりました。 ところが、山本先生《やまもとせんせい》は目《め》がわるくて、本《ほん》をよむことが不自由《ふじゆう》なので、諭吉《ゆきち》は、世《よ》の中《なか》のうごきなどについて、いろいろな先生《せんせい》がたの漢文《かんぶん》でかいたものをよんであげたり、手紙《てがみ》をかわりにかいてあげたりしなければなりません。また、山本先生《やまもとせんせい》にはむすこが一人《ひとり》ありましたが、その子《こ》に漢文《かんぶん》をおしえる家庭教師《かていきょうし》の役《やく》も、仕事《しごと》の一つでした。 それから、山本先生《やまもとせんせい》の家《いえ》はくらしむきは大《おお》きいのですが、びんぼうで借金《しゃっきん》があるものですから、そのいいわけをしたり、ときにはお金《かね》をかりにいかなければなりません。下男《げなん》(男《おとこ》の使用人《しようにん》)が病気《びょうき》になれば、水《みず》くみもしました。女中《じょちゅう》(女《おんな》のおてつだいさん)にさしつかえがあれば、台所《だいどころ》のてつだいもしました。ふきそうじはもちろん、先生《せんせい》がふろにはいられると、せなかをながしてあげたり、生《い》きもののすきなおくさんの飼《か》っているいぬやねこのせわもしなければなりません。

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